山口晃「すゞしろ日記」

 山口晃のすゞしろ日記についての展示。NADiff a/p/a/r/tにて。
 ちょくちょくメディア露出があるから思い出すのだけど、山口晃って極めて雄弁。画だけでなく、言葉も雄弁。それが漫画にもよく表れている。
 そもそもが、明治とか大正昭和の文豪の遊学日記や旅行記みたいなもののパロディの体を取っているわけだけど、今の大学生にどれくらい通用しているのかが気になる。(まあ、別に私も遊学日記とか旅行記をリアルタイムで読んでいるわけじゃないけど)
 山口晃って東大の東京大学出版会のPR誌UP(University Press)に漫画日記描いていたのね。
www.nadiff.com

プリンセスメゾン

 kindleで。
 家、マンション・戸建て問わず、家にまつわる小話を、居酒屋社員の沼越さんと、持井不動産の3+1人とを主に登場人物として描く。彼らの隣人や家族も時折登場し、群像劇となる。登場人物それぞれに、それぞれの人生があることをこの上なく尊重し、社会的な偏見には一切与しない。(いい年して未婚であるやら、女一人でマンション買うやら)
 ありったけの善意を詰め込んだら、こんな作品ができるのだろうか。これは本当に脱帽した。素晴らしい。
 家というものは、場所であり、資産である。思い出の扉であり、未来への一歩である。こんな陳腐な言語化では表現できない数多の物語が、紡がれたそんな本。

プリンセスメゾン 2 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 2 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 3 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 3 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 4 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 4 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 5 (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン 5 (ビッグコミックス)

アール・ブリュット 動く壁画

 ボーダレス・アートミュージアムNO-MAにて。
 4人の作品が展示されているのだが、その展示に至る前に、“4Kキャメラ”で本展のキュレーターが撮影した映像を見る。次いで、実際の作品を鑑賞するというスタイルの展示であった。
 賛否両論あると思うのだけど、要は作品の見方を先に提示してしまうという効果があるわけで、実際の作品を目の前にしたときに、どういった距離感で、どういう速度感で、どの方向に作品を見回すかというのは、鑑賞者に与えられた権利なわけだけども、それをある種縛る。作者に依っては忌み嫌うのではないかとも思うが、まあ、間口を広げる的な意味があるのではなかろうか。
 今回の4人の作品は、形容しようとすると、「夥しい」。世界というのは情報量過多であるために、私の脳は情報の多くを捨て、抽象化して処理して、「見て」いるし、表現するときも、そのように表現するのだと思うのだけど、彼らはそうしない。夥しいほどの情報量を、情報量の観点からは落とすことなく「見て」、そして表現しているのかしら。
www.no-ma.jp

恵比寿映像祭

 エイヤル・セーガル 「GROUND LEVEL」
www.yebizo.com
Displace vol.2エイヤル・セーガルGROUND LEVEL - LOKO GALLERY
を目的にギャラリーに伺ったところ、これは正直そんなに面白くはなく、一方で恵比寿映像祭なるものが催されていることをそこで知り、他もちょいちょいと廻ってみましたという感じ。
 個人的に印象に残ったのは、戸島麻貴「imaginary lines」と、相模智之「Behind Closed Doors」。どちらも(たまたま?)作家が来廊していた。

戸島麻貴「imaginary lines」

www.yebizo.com
mem-inc.jp
 イラストの方は正直ほとんど興味がわかなかったのだけど、新作ビデオインスタレーション「Between the birthday and the deathday」の方に非常に興味を惹かれた。語りたいのだけど、配られている冊子に

今回本作をご覧下さった皆様、本作は今後も制作を続ける予定ですので、作品の種明かしは私と皆様の間で秘密にしておいてくださいね。

とされているので、作品の枠組みについては触れない。本作はタイトルの通り、the birthdayとthe deathdayについての作品なわけで、私はてっきり、人間は記憶(=過去)に生きる生き物であるということを観覧者に気づかせる仕組みなのかと感じたのだけど、配られている冊子から見比べてみるとどうもそうではないようだ。とすると、作家が大きく編集をしているということか。自分で観た時の印象としては、時間軸に関しての編集1つだけで勝負しているものと勘違いしていたようで、前述の感想を持った。いずれにせよ、情報量の多い作品で、これは体験の価値が大いにある作品と感じた。10分をはるかに超えて、ぼーっと作品世界に浸りながら思考を巡らせて他人の人生というものに思いを馳せる体験。

相模智之「Behind Closed Doors」

www.yebizo.com
kobochika.jugem.jp
 木造建築や団地建築の写真集合。作家本人も語っていた通り、撮影者としての存在感をなるべく薄くするために鉛直と水平を乱さずに取られた数多の古い住居の写真群。そこに浮かび上がってくる生活のにおい。並べられることで比較され、意味を持ち始めるちょっとした意匠の数々。
 作家本人ともお話しさせていただいたが、

  • 定点観測的な観点での作品構成でも見てみたい
  • 家、ついて行っていいですかでのいくつかの回のような心をつかまれる思いがある

などなど。

Blackberry Classic (Q20)のワイヤレス充電化

 購入したQ20は当然日本の法律を守るためにSQC100-1なので、Qiは使えない。
 けれども
forums.crackberry.com
を見ると、バックカバーを取り換えればQiに対応するかと思いきやダメのかな。

追記↓
www.ebay.com
を買って、交換してみたものの、ワイヤレス充電はできませんでした。残念です。

会田誠展 GROUND NO PLAN

 会田誠、GROUND NO PLAN。一般営利企業が、この展示を許しているのが、すごい。会田誠も、「どこまでやったら大林組に怒られるかなー?」とアグレッシブにいったら、まさかの全部OK出ちゃった感じだったりして。
会田誠展 GROUND NO PLAN|公益財団法人 大林財団

からだは戦場だよ2018 人間は考えヌ頭部である@ビッカフェ

 古谷利裕が取り上げていて興味を持ち、行ってみた。
からだは戦場だよ2018ー人間は考えヌ頭部である

予告篇:からだは戦場だよ2018(小鷹研究室)

  1. 背面空間を直に見る: ELBOWRIST(エルボ・リスト)
  2. 自分の身体と対面する: SELF UMBRELLING(重力反転計画)
  3. 頭部を着脱する: IMMIGRANT HEAD(漂流頭部)
  4. ドローイングと生の身体を接合する: 蟹は8本の葦である(連作)、鉄格子の中の人は訴える
  5. 規格外に伸び縮みする腕: ELASTIC ARM ILLUSION

の5つが展示予定だったのだけど、装置の問題で27日は「SELF UMBRELLING」と「ELASTIC ARM ILLUSION」は体験できなかった。その他の展示を体験した。
 加えて、軟体生物ハンドについても体験した。

 「蟹」については、自分の認識としてはそんなにぞわっと来なかった。しかしながら、定量的にしてみると(学生さんと斜めに手を交差させて、反射を見るようなゲームで点数を競えるようになっていた)、クロスさせた場合はクロスさせなかった場合に対して点数が低く、反応も遅かったので、認識できてはいないものの、脳はしっかり混乱していたのだと推測できる。
 アナログものとしては「鉄格子の人・・・」の方がより、自分としてもぞわっとする感じがあって、それは被験者の指の動き(=鉄格子の中の人の手の動き)と、鉄格子の中の人の身体の動き(被験者の親指に押されて動くようにできている)が一致していることで、相乗効果的に自分の手が鉄格子の中の人の手のように思われたんじゃないかと素人考えでは結論付けられた。

 ELBOWRISTについて、これは、

  • 片手ずつ動かすか、両手同時に動かすか
  • 頭を上下に動かすか、否か

で、印象が全然違った。片手だけ動かす場合は割と動かせる(おそらくerrorを認識せずに無自覚に修正しているだけなのだが)のだけど、両手となると途端に脳が混乱した。もちろん、特に両手が対象でない動きをする時に、著しく混乱して、私は慣れることはなかった。頭の上下についても、やはり、後頭部視点で下を見ようとした際に、無意識に顎を下に引いてしまう動きがやめられなかった。自分の視点・視線を動かすことと、身体の動きとが、無意識のうちに連結されていることに気づかされた。頭では後頭部視点なのだと理解させても、そう身体を動かせない。

 IMMIGRANT HEADについては、首が徐々に外れていく方も銅鑼で吹っ飛ばされる方もそんなにぞわっとしなかった。後述のように、そもそも生首的なものへの嫌悪が著し過ぎて、他の感覚を鈍らせているのではないかと。

 軟体生物ハンドについて、私が体感したものとしては、シリコーンの柔らかハンドをぐにゃぐにゃやられているのを見ながら、陰に隠れた自分の手の相似な位置をつんつんされていると、自分の指が通常感じるよりもぽわんとした圧力を感じた。これで展示側の意図通りだったのかしら??

 我々の脳が我々の体をどう認知しているか、という観点で、自覚しているよりもかなり曖昧に自分の身体を認知しているものなんだなと実感した。事故等で、身体の一部を欠損した人が、後遺症で失った部分の疼痛を感じたりする症例とか、これと関係しているんだろうか。
 来場者に紙でも配ってアンケートでも取ったら、今後の研究に役立つのではないかと老婆心ながら思った。

p.s.
 私が種々の錯覚などで感じる「不安」が本当にそれなのかを自分で疑問に思ってしまう理由として、自分が異様に感情移入しやすい質なのではないかと思っていることが挙げられる。メスを肌に入れる映像であるとか、他人の血であるとか、注射の針が肌に入る映像であるとか、これらの肉体を傷つける類の映像が尋常じゃなく苦手で、どうも他人よりのその程度がかなり強そうである。ゆえに、錯覚に伴う作り手側の意図通りの「不安」なのか、自分固有の肉体損壊に対する異常なまでの不安なのか、わからない。今回の展示でいえば、IMMIGRANT HEADで首から上が、首から下と別れるということに対する、私の反応。

p.s.2
 哲学の領域に踏み入っていると思うのだけど、発信側は言語で、受信側は言語からの想像でしか伝達できなかったことが、テクノロジーによって体験の体をなして伝達できるようになったという意味で、この領域の研究が加速されやすい環境が整ったということなんだろうか。

p.s.3
 HMDの進歩もさることながら、プロジェクターの開発も進んでいっているので、プロジェクターで体感できるような展示ができると、より民主化(12歳以下の子供や、酔うタイプの人にとって)されるということになるんだろうか。

p.s.4
 幽体離脱的な仮説と、テレビゲーム等において主観画面なのにプレイヤーの頭部が見えたり運転している車の全体像が見えたりと若干神の視点でプレイすること、とは何か関係があったりするのだろうか。

わたしたちの家

 清原惟監督、わたしたちの家。映画ってなんだろう、そう思わせられる映画だった。
 玄関がシャッターである民家兼昭和のタバコ屋みたいな建物に住む①セリと桐子の親子、②さなと透子、のパラレルワールドを2つを交互に描いていく。

  • スクリーンに映し出される画の構図
  • 座る位置など、その世界の中での座標

が意味深で、過去に観た映画を思い出させる。
 この映画はその世界をただ、描き出して、ちょっと2つの世界をつなげて、上映が終わる。描かれる2つの映画世界において、基本的に何も明らかにされない。
 清原監督は、映画技術をよく勉強していると思う。映画を観てきた人が観客となった際に、こころくすぐられるような要素を各所に散りばめている。でも、だから何?というのが正直な感想。世界が閉じていて、私に訴えてくるものは特に感じなかった。監督の、世界に対する態度表明としても、特に何も表象されていないでしょう。透子に象徴される日常の繰り返しを積極的に肯定しているようにも見えない。
 また、あくまでも2つのパラレルワールドはどちらが主で残りが従でというわけではないと思うのだが、セリがクリスマスツリーを地面に挿して電飾が点くシーンによって、①セリと桐子の世界が世界と信頼性を失い夢の世界のように捉えられてしまう訳だが、それはおそらく作り手の意図に沿ったものではないだろう。
 そして、知りたいと思う謎が食卓における座る位置である。あの家の食卓における上座を、映画の前半ではセリと透子がそれぞれの世界において定位置としていたことに意味はあるのか、後半で透子の座る位置が変わったことに意味はあるのか、それが知りたい。
 大学院修士課程の制作作品としては、実にすばらしいと思う。でも、それで1800円をとって見せるに値するかというと、個人的にはどうかなと思う。
 日本家屋ってこんなに直線で構成されていたのかと思い出さされた。そういう機能的な面では、語るべきところの多い映像であった。
清原惟監督作品 『わたしたちの家』
www.eurospace.co.jp
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モダニストの日本美―石元泰博「桂」の系譜

 三重県立美術館にて、モダニストの日本美―石元泰博「桂」の系譜。
 モダニズム建築という波が西欧にて巻き起こった一方、そのエッセンスがすでに近世日本建築(特に桂離宮)に存在していることが発見された。その一通りの流れを、画家三好好太郎の作品から始め、石元泰博の写真に到達するという展示によって、追体験しようという試み。
 彼らが日本的美であるとかモダニズム的に美と定義したものは、主に直線で構成され(建築だから当たり前?)、原則対称性の極めて高い形状(展示されている写真も等角図を意識したのか、写真の底辺からの構造の角度が30度のものが多い)なんだけども、“遊び”として若干対称性を崩す(石のような天然物の形状や、格子を増やしたり減らしたり)というものと感じた。言語化するのは難しいのだけど、直感的にはよくわかる。
 最も印象に残ったのは、丹下との論争の中に出現した、岡本太郎であった。
 館長さんが三好好太郎マニアなのかな?恥ずかしながら本展にて初めて知りました。
三重県立美術館 モダニストの日本美―石元泰博「桂」の系譜