きみはいい子

 呉美保監督のきみはいい子。プライムビデオで。結構よかった。

  • 学級崩壊やモンスターペアレント(まがい)と相対する新任小学校教師・岡野
  • 自分のトラウマにもとらわれ、娘へ虐待を止められない主婦・雅美
  • 戦争時のトラウマを抱えながら一人で生きてきて認知症を患いつつある老婆・あきこ

この3人(同じ街に住むのだけど、お互いはお互いをモブとしてしか認識していない)を軸とした群像劇。

 もう2度と自分に決定権がなく環境を変える力もないあの頃には戻りたくないなと思わせてくれる小学校学級シークエンスや、抑制の効いた演出(雅美が時計を必要とするカットや虐待された次の日は学校に行かせてもらえなかった・・・の件など)、つなぎでフックをつくっておいて次のシーンで拾う脚本の巧みさなど、観ていて満足感があった。

 最後の終わらせ方は、賛否あるのではなかろうか。私は救われた神田さんが観たかった。

きみはいい子 DVD

きみはいい子 DVD

 

片桐仁 不条理アート粘土作品展「ギリ展」

 19年も続けるということは、こういうことなのか。そう、圧倒される物量。もちろん締め切りに間に合わせるために、クオリティにムラがあることは否めないのだけど、「お仕事」以上の過剰であふれ出てしまっている意欲や衝動が形になっている。一方で、ブレない癖もあって、目への執着、人間の顔の造形への執着、人間の手足の造形への執着、男性器への執着、なぜか付けたくなって明らかに余計なのに付けちゃう。
 これが、創る人の業なのかと、その実を叩きつけられた思いです。
 私個人の趣味としては、よりその衝動が色濃くにじみ出てしまっている初期作や、異様にディテールにこだわってしまっているいくつかの作品(ノリにノッてしまっただろうな…)が好き。でも、家には要らない(笑)
片桐仁 不条理アート粘土作品展「ギリ展」

Ascending Art Annual Vol.2 まつり、まつる

 市原えつこ、久保寛子、スクリプカリウ落合安奈、桝本佳子の4人展。青山にて。

 スクリプカリウ落合安奈の作品は写真もしくは撮影・映写に関わるもので、その中に時間や空間の概念を取り込んだものだったけれど、私の興味はあまりひかなかった。

 桝本佳子の作品は割とオーソドックスな形状の陶器と山川草木や動物が融合したようなかたちをした陶芸たちで、心惹かれるものではあったけども、考えさせられるものではなかった。(私にとって)

 久保寛子の作品は、5cm間隔で鉄筋が溶接された粗メッシュのようなもの(建築資材?)で面構成を行って、人間の顔や人間の足をかたどったもので、その大きさと大胆なデフォルメ感に心惹かれるものがあった。

 とはいえ、本展で最も素晴らしかったのは、市原えつこの作品だった。『デジタルシャーマン・プロジェクト』、『都市のナマハゲ』、3Dプリントでつくられた縄文土器に向かい、家庭用ロボットが祝詞(のりと)を読み上げる新作プロジェクトの3つが展示されていたが、都市のナマハゲはさほどピンと来ず、デジタルシャーマンもそれなりだったのだけど、新作プロジェクトはかなり思考をかき立てられた。

 シャーマンや祈祷の類は先入観として伝統的で、時代遅れのものという理解をしていたのだけど、それは私の偏見であると認識させられた。シャーマンや祈祷師は、別に翁や長老や老婆がしなくてもよいのである。シャーマンや祈祷に宿っている、人間が本質的に求めるもの(それは宗教に人間が求めるものと近いのだろう)を抽出して、それをテクノロジーで形を与えてやればよいのである。その具現化が上述のプロジェクト、そう私は理解した。

www.spiral.co.jp

www.cinra.net

 

正しい日 間違えた日

 ホン・サンス正しい日 間違えた日。DVDになるかわからんからスクリーンにて。
 私にとって、ホン・サンスの映画は少女漫画的な楽しみなのかもしれない。
 この作品に限らず、ホン・サンスの映画では何が達成されたかには重きが置かれない。つまり少年漫画的ではない。この作品でも、「だらしない既婚の映画監督が訪れた水原で、美しい女性と出会い、彼女と恋をし、そしてその恋は報われない」これだけで説明できてしまうことしか起こらない。本作は2部構成になっていて、対照して楽しめる、それだけのことだ。
 ところが非常に面白い。心を揺さぶられる(とはいえ、上映中、よく寝てしまうのだけど)。これは、何をなすかではなく、どう生きるか(どう生活するか)に私の興味が移ったためであろう。そして、ホン・サンスの映画にはどう振る舞うかしか描かれない。それのみを時間いっぱいを使って描き続ける。
crest-inter.co.jp

帝一の國

 帝一の國。プライムビデオで。
 戯画化すればこう描けなくもない高校生活を送ったので、懐かしさも含めて楽しめた。まあでも、箱庭的世界観を楽しむフィクションであって、それ以上のものではないかな。今をときめく若手俳優女優が並んでいて、そこはキャスティングが素晴らしい。
 というのも、志尊淳永野芽郁は「半分、青い。」と極めて類似のキャラクターであり(もちろん本作の方が先)、糸電話という小道具までかぶっている。(北川悦吏子帝一の國にオマージュを捧げるとは思えないので偶然だろう) 日本一のシェイクスピア俳優であるらしい吉田鋼太郎は、おっさんずラブで見せた鍛え上げた演技力を惜しみなくナンセンスコメディに注ぎ込むという所業を、本作でも見せてくれている。
 私が気づいたところではこんなところだけど、キャストの魅力が2018年現在の作品ともつながる形で発揮されていて、ハブとしても興味深い作品と思った。間宮祥太朗の2018年現在は、全員死刑半分、青い。の最新部も観ていないのでごめんなさい。

夜の浜辺でひとり

 ホン・サンス監督、夜の浜辺でひとりホン・サンスって全然知名度なくて、映画館が割とガラガラ。
 私にとって、ホン・サンスの映画は言語化できないのだけど、魅力がある、そんな映画。本作は、いつも通りのホン・サンス的な淡々感。いつも通りのカメラワーク(パンと光学ズーム)近作(というほど近作観てないが・・・)同様、主人公は女性。ただ、自身の私生活が色濃く反映されつつ、主人公がキム・ミニ本人という露悪性。キム・ミニ演じる女優ヨンヒのハンブルクでのエピソードと、しばらくの後に戻った江陵でのエピソードの2部構成。(潔く、暗転して1、2と示される)
 不倫スキャンダルからドイツはハンブルクに逃れた女優ヨンヒ。先輩のもとに身を寄せ、ハンブルクを散歩する。散歩の最中、先輩を先に行かせて橋を渡らせ、自分は橋の手前に跪く。
 時は経ち、ヨンヒはソウルが嫌で江陵に戻る。ガラガラの映画館にて映画を見終えたところ、先輩に出会う。かつての仲間と会話し酒を酌み交わす。江陵に部屋を借り、生活を始めようとする。
 これだけの物語。それがコミュニケーションをつぶさに追い、描き出されると、1時間40分の映画となる。 
 正直言って、キム・ミニも美人ではないと思うのだけど、作中でも評されている通り、魅力的。
 ハンブルクでヨンヒを拉致したのは誰?
crest-inter.co.jp

p.s.
まあ、わからんよね。
dokushojin.com

動きをうごかす展

 東大山中俊治研究室の研究発表展示。&ゲスト作品として藤堂高行さんのSEER。
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 最終日だったので、すごい人の入り。下に示す森山和道さんの詳細な記事を読むと、そのうえ何を自分が書くかと思わせられるくらい、よく書かれている。予習に読むべきだった。“READY TO CRAWL”、“F.o.G Face on Globe”、“SEER”が特に心に残った。
pc.watch.impress.co.jp
 
 この記事や末尾にリンクを付す解説冊子(会場で貸してもらえた)を読むと、“READY TO CRAWL”はAM(Additive Manufacturing)技術で組みあがった状態で成型しているとのこと。会場で、耐摩耗性の程度とか質問するべきだったなあと今は思う。

READY TO CRAWL

 F.o.G Face on Globeは単純な動きをしているようでいて、ちょっと球面の面積と平面の面積について思いを馳せるとなかなかに難しいことをやっていることに気づく。入口で再生されていた解説動画を見ると動きが結構繊細で、各々のパーツは単なる鉛直方向の往復だけでなく、回転していたはず。

Face on Globe 「Parametric Move」展から

 藤堂さんのSEERは、裏で制御しているMacbookAirのディスプレイもよかった。SEERが対面している人の顔を認識しているさまが数値化・評価されている。今やスマイルシャッターのような技術もあるのだから、組み合わせると、私が悲しい顔をしているときは悲しい表情を、うれしそうな顔をしているときは共に喜んでいる笑顔を、痛がっているときは共に苦しい表情を示すような、共感型のアンドロイドも技術的にはすぐそこまで来ているのだなと感じる。


www.design-lab.iis.u-tokyo.ac.jp
↓作品解説冊子のPDF
http://www.design-lab.iis.u-tokyo.ac.jp/exhibition/proto2018/pdf/brochure.pdf

22年目の告白-私が殺人犯です-

 正直金曜ロードショーなんて長らく観ていなかったのだけど、“監督・脚本 入江悠”の力で観た。脚本よく考えられているよ。
 アイデア一本の物語、各々に一応の理由付けがある。殺人犯にも殺人犯の論理がある。そういう意味で極めてオーソドックスに思う。
 対決の構図が転換していく様もお見事。
 でも、社会に対する批評性がないんじゃないかな。最近は、社会に対する批評力を持った作品が好みなので、私のリズムにはそんなに合致しなかった(私の勝手)。