枯木灘

 小説にもさまざまな文体がある中で、中上健次の枯木灘は油絵を思わせる。前に塗った色と、後から塗った色が、混じりあい、ぼやけ、にじむような水彩画とは異なり、色がただひたすらに上へ上へと重ねられ、後から載せた色を通して前に塗った色を観せられる、そして、以前に色を載せた時の質感が、上に色を載せた後でも生きていて、何らかの影響を完成後の作品に残している、というような油絵のような手法でもって編まれているという感覚を覚えた。 断定口調の短文が、しかしながら圧倒的な存在感と圧力とをあわせ持って、積み重ねられている。
 逃れることのできない、存在自体に疑問を抱かざるを得ない、原罪にも似た理不尽。運命などの単純なもので表現するのがはばかられるが、そうとしか呼べない血のつながり。そして、伊耶那美命が火の神を生んで果てた神の国である、という熊野という場所の持つ力。そういうものが、スケールの大きさに押しつぶされて死んでしまうことなしに、いや、むしろ生々しさや肉の手触りを持って、緊迫感と共に、この小説には存在している。マッチョイズムとダンディズムをあわせもつ秋幸という生きた確固たる一人の男を中心に据え、中上健次は自身を投影しつつ物語を綴る。感動とかそういう種類の感情がわきあがるのではなく、苦しい、いや痛みを感じる。
 誰かが「人間は考える葦である」と言ったらしいが、秋幸にとって考えることは、すなわち苦しむことであり、彼は、土方をしている時に、すなわち何も考えることなしに、日に焼かれ、染まり、土と一体になることを欲し続ける。「今、単に、動く機械だった。」とされるように、彼は人間であり続けることから離れたかった。しかし、彼は殺されることもならず、狂うこともならない。否定したくても否定することのできない親と子の関係。生まれ育った場所。彼はそれに抗い続け、悩み続けている。

枯木灘 (河出文庫 102A)

枯木灘 (河出文庫 102A)