ドイツ写真の現在 かわりゆく「現実」と向かいあうために

 この写真展の最初に展示されていたベッヒャー夫妻の作品群は、工業的なある目的を持った建築を撮影していて、繰り返される類型―ある機能を突き詰めた果てに辿り着いた形状は、当然効率等がいいので繰り返され、場は均一化される―を捉えていた。それは、大量生産・大量消費社会の産物であり、個性のない、つまらないものだという視点で、非好意的に語られることが多い印象があるが、この作品群においては当てはまらず、ただ漫然とシャッターを切っているだけである。むしろ、その繰り返される形状の中の、わずかな差異や、一つの到達点にあるフォルムを楽しんでさえいるかもしれない。球や直方体のように名前を持つ基本図形の組み合わせだけで記述できるような相似な建築が林立し、同じパイプが隣り合い、軍隊の規則のようなものすら感じられる。僕には、このベッヒャー夫妻の感覚を共有することができたようだ。アンドレアス・グルスキーのグリーリーという牧場の鳥瞰写真にもそのような感覚を感じた。
 また、最後の部屋に展示されていたリカルダ・ロッガンの3つの作品は廃墟から持ち出した家具を、元あった配置のままスタジオの中に配置し、撮影した作品なのだが、これは興味深かった。この写真はスタジオとそこに置かれた家具を撮っているのではなく、家具がその配置で置かれることによって再現される、廃墟に人が存在していた頃のその場―ノスタルジックとも言える、かつてあった雰囲気、空気感といったもの―を撮っている。物理的に存在しない、形而上学的なもの、目で見ることのできないものをカメラという光学的な機械で持って切り取り、展示場に再現しているというのが、僕の興味を煽った。しかしながら、他の壁が全て白であるのに、スタジオの床が土であり、視覚的に残ってしまっていることについて、作者の意図が論理的にも感覚的にもわからなかった。ここも白であれば、観客の目から床も消滅させ、ただの家具の配置だけを捉えることができ、より作品の純度が高まったと思ったのだが、どうなんだろう。
 ロレッタ・ルックスの作品は単純に気持ち悪かった。生理的に。
 あと、これは写真展と関係ないのだが、常設展の展示品が大幅に変わっていて、正直言って全く好きでないのだが、大正時代の怪談とかに使えそうな女性画で、正絹に描いたりしているような絵の曲線がすごかった。絶妙の曲率で、一定ではない、徐々に増したり減ったりする曲率によって描かれる曲線が印象に残った。