つげ義春とぼく

 つげ義春の綴る言葉は寒々としている。漫画と同様に、何かをあきらめてしまっている人の言葉だと思う。細々と訥々と語られる言葉。そうではあるけれども、彼の作品にはダメと一笑に付してしまえないなにかしらを感じる。論理的にわかるのでなく、感覚的に知るような。それはなんだろうと考えてみる。
 この本に載せられている夢日記やエッセイを読む限りでは、やれ誰とセックスをしている夢を見た。やれ何々が怖くて逃げ出したい。等々、しょうもないことばかり考えている。小市民を実物にしたような人間のようだ。いつもビクビクしている。という風に作品を読んでいると簡単に攻撃できてしまうのだが、果たして僕はそんなに偉いのかということだ。過去を振り返る時、楽しい時間が過ぎ去った時、後ろ向きな気持ちになる(少なくとも僕は)。いい心持でないとはわかっていても、止められない、いわば必要悪のような気持ちだ。こんな気持ちはなけりゃいいのだが、これがなければ「楽しい」というような肯定的な感情もないだろう。普通、後ろ向きな、弱い心は否定され、攻撃される。なじられる。対して、つげの作品では弱い気持ちを叩きつぶしたりしない。それは彼自身が弱いことをこの上なく感じているからだろうか。つげの作品のそんなところに惹かれるのかもしれない。

新版 つげ義春とぼく (新潮文庫)

新版 つげ義春とぼく (新潮文庫)