ドッグヴィル

 こんなに観るのが苦痛な映画(小説?)を観るのは久しぶりだったから、何回か途中でやめようと思ってしまったが、最後まで観れてよかった。
 この映画はフィクションである。しかし作家は嘘をついていない。この映画は間違っていない。拡大解釈とデフォルメをしているだけだ。セットは簡素で、家や道路は地面に白文字で書かれているだけのモノであるが、それで必要十分だ。プロローグと9つの章から成り、ナレーションが坦々と状況を説明するのも作品にとって必要十分。手持ちのカメラで撮られるのだがそれも同様。作家のメッセージを伝えるに必要十分なものしか用意されていないのだが、技術として不足はない。ダンサー・イン・ザ・ダークに引き続き、ラース・フォン・トリアーを尊敬せねばなるまい。これだけ悪意に溢れていて、その悪意をこのように形を与えて表現することができる人間っていうのは問答無用で賞賛に値する。ここまで陵辱的なレイプもなかなかないしね。
 アメリカの縮図であり、象徴であり、また、人間世界のそれでもある「ドッグヴィル(犬の街)」を舞台に、人間の本性を観客へのあてつけとして提示し続ける。合計どれだけの時間だろう?1時間はあるよな?その人間の弱さに起因する過ちを女神なるグレース(【名-5】 《神》恩寵{おんちょう}、神の愛 [アルクより])は赦し続ける。撥ね付けることができなかったかのように描かれるが後にわかるように彼女は赦しているのだ。次第に観客は彼女の味方となり、彼女に感情移入するだろう。それがこの作品の目的なのだが。
 しかし赦すことは傲慢である。彼女の父親が諭す。神に向かって傲慢だと言うかのように。というか言っているんだけど。聖書を読んだことないから詳しく書けないけど、キリスト教に言及しているんだろうことはわかった。
 何と書いても、僕はこの映画の何も描けていない気さえする。まずはキリスト教を勉強しないとダメね。とにかく人間の本質について考える機会を提供する不快な映画だ。気分が悪くなっても、それは監督に言ってください。
 9章において、物語は動くのだが、ここでもっと残酷に痛めつけてほしいと感じてしまう僕は、ドッグヴィルの腐った人間どもと同じく弱い存在であり、犬なのだと自覚した。感じなかった人は偉い。素晴らしい。拍手してあげよう。傲慢な人間として。
 最後にこのセットで演技をした役者さん達に敬意を示したい。