月はどっちに出ている

 衛星放送のほうをGyaOで。しょっぱなから大事な「月」がうそ臭かったのに吹いてしまったり、始まって5分でセックスが始まってびっくりしたり、低予算短編の弱点は堪能させてもらったが、30分を最大限使い切ってエンターテイメントを展開していると思った。
 この作品はしっかりと観客を裏切ってくれる。「俺は朝鮮人は嫌いだけど忠さんは好きだ」ダメ日本人同僚にさらりと言わせるこのセリフ、主人公忠男はさらりと聞き流す。この言葉、「良識ある」日本人(のように見える差別者)には面と向かっていうことはできないセリフであるが、それは相手を不快にし、いざこざになりかねないことを知っているからだ。ところがいざこざにならない。このシーンを観て緊張感を高める日本人観客は少なくないだろう。彼らは差別を直視しない人間たちである。ドラマが展開される、と予想する観客は少なくないだろう。しかし、何も起こらない。日常の一コマとして流れ去っていく。作り手の思うつぼであり、差別者たちは観客としては騙されて頼もしさすら感じる。
 同様の手法がラストでもう一度使われる。観客として、ドラマを期待する。拳が飛び交う、もしくはナイフ、銃弾...。日本人側―差別する側―ではデリカシーという名のなあなあに続く差別の一端として、そういう「転」のストーリー予測するのだが、作り手はまたも裏切る。観客を再び騙す。在日朝鮮人を被差別者として見ている人間と日本人を差別者として見ている人間を高みから共にあざけ笑うインテリジェントな(に見える)エンターテイメントの形。まあ言いたいことが上手く言えてないけれども。