雑記

 僕自身殺人を犯したことはない。しかしながら、古くから「殺人」は文学や映画の得意分野であり、いくつもそれを扱った作品を読んだり観たことがあるし、個人的な性向もあって、殺人を犯す人の気持ちはわからないでもない。むしろ自分がいつ人を殺してもおかしくないなという自分に対する危機感すらある。殺人者に親しんできたといったら語弊があるが、カミュの異邦人であるとか、ピーター・ジャクソンの乙女の祈りであるとか、世に星の数ほどある、殺人者を丹念に描いた作品に触れると、殺人者と自分とに共通の感覚があり、殺人者というのはそれだけで向こう側の存在なのではなくて、こちら側、つまり僕や友人やその他大勢の普通の人たちの側の人間であって、その境界を何かの拍子に越えてしまった人であるというだけであるという感覚を持つことができるだろう。
 でも、首を切断するというのはどういうことなのだろうか?つい100年ほど前に日本で行われていた首の切断には見せしめという理由があるし、バラバラ殺人には遺棄しやすくするという理由がある。しかし、この会津若松の事件の場合、簡単には理由というやつを見出せない。理由というものを見出せない場合、わからないので怖い。生理的本能的に恐怖を感じる。実に直感的な物言いだけど、彼は気違いではない気がする(もちろん定義次第なんだけど)。気違いであるとか、異常者であるとか、そういう簡単な区別でもって、疎ましいものを向こう側に追いやり、センセーショナルに文字を躍らせることでお金を生み出している人とそれに馴らされて追従する多数派につくことは実につまらないし、何の解決にもならなくて、こういうわかりにくいことを、少しずつ解きほぐして、わかることが大事だと思う。僕自身が今できるのは色々と思い巡らすことだけだけど。
 生首について思いを巡らせたのはフライデーの三島の生首を見たとき以来だ。