備忘録

 先週の日曜日、友人とビール片手に散歩した。両国からスタートし、浅草橋、秋葉原、上野とほろ酔い気分で歩き、力士や祭りの様子や歩行者天国を眺め、楽しんだ。秋葉原の歩行者天国は初めてだった。日曜日の午後は歩行者天国になっていることすら知らなかったし、しかもあんなに人がごった返しているとはなおのことだった。その時友人と語らいながら思ったことは、ものすごい熱気がみなぎっているという事と、もう一つ、他の街とは違って、敵意がないということだった。渋谷、新宿、池袋を始め、たんまりと人間がいるところはいくらでもあるけど、この秋葉原という街はぜんぜん殺気というかイライラや敵意から解放されていて、ものすごく平和だと、そう思ったのだった。ものすごく魅力的な街だなと友人と意見が一致したのだった。
 それだけに、ひどく驚いた。まず、怖かった。
 ちょうど1週間違えば、血を流していたのは自分だったかもしれないと、他人事でない恐怖を感じた。メディアから流される映像・画像は痛覚を刺激するのに十分な血の量や粘り気、被害者の血の引いた肌の色を捉えていたし、加害者の青年がものわかりの良さそうな青年だったこともあって、衝撃は大きかった。そして、加害者は25歳だとテレビで知った。
 同年代の他の人々はどうなのかわからないが、私自身はfont-da氏のように(id:font-da:20080610)、自分がいつか人を殺してもおかしくないと思ってきた。親の世代なんかは、自分が殺人を犯す可能性なんてありえないような口ぶりで殺人犯たちを恐怖し、非難していたが、酒鬼薔薇聖斗ネオむぎ茶と同い年の私は、無条件に自分と殺人犯たちを切り離すことができなかった。荒川沖での事件の加害者や今回の事件の加害者が同い年だということも、私にはただの偶然以上の何かとして印象付けられた。こういう理由のわかりにくい殺人事件を解きほぐすのを面倒くさがって、犯人がおかしいという結論で満足するのは、もう時代遅れなのだと思う。そうやって、社会病理を個人が原因と安易に結論して、安心しても何も解決されないし、すぐに次の事件が起こってしまうということに、もっと敏感にならなければいけないのだと思う。boiledema氏(id:boiledema:20080610)言っていることや内田樹(http://blog.tatsuru.com/2008/06/11_1020.php)が言っていることも原因の一部だろうし、その他たくさんの要因が絡み合っているのだろう。とにかく、考えることを放棄してしまうのが、私たちの選びうる最悪の選択肢であって、私は、殺人を犯してしまう可能性を無条件に否定できてしまう、無知で幸せな人にはなりたくないと思う。