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空飛ぶタイヤ

小説

 池井戸潤の空飛ぶタイヤ。講談社文庫で。

 巻末に

なお、本書はフィクションであり、実在の場所・団体・個人等とは一切関係ありません。

とよく書いたなと思わせるほど、“ホープ=三菱”で、三菱自動車三菱重工東京三菱銀行(当時)や三菱商事を頭に思い浮かべながら読む物語。
 解説を大沢在昌が書いているのだけど、これを引きながら考えたい。彼はこの小説のおもしろさは主に2点に集約されるとし、

  1. 三菱自動車リコール隠しそのものかと思うような、真実味あふれる描写
  2. 群像や集団を書く巧みさ

にあるとした。私はここにこそ、この物語の弱点があると思う。というか私には読む価値の高い小説とは評価できない理由がある。つまり、新しくないし、人間個人が奥行きをもって描かれていないと思う。
 確かに上下巻合わせて850ページ余りを一気に読ませるだけの、真実味あふれ、手に汗握り、登場人物に共感して感情を高ぶらせる文章が、ここにはある。旧態依然とした大企業の内部を知る人間であれば、肯くこと間違いなしの組織の論理と、組織に属する人間の論理も、ここには描かれている。
 でも、そんなものは過去の小説・物語にすでに描かれてきたものでしょう?これより上手く書いた物語はあるんじゃないの?って思うのです。
 私は読み手としては単純で馬鹿の範疇に入る人間なので、その後の展開が予想されるとしても、「見た目はちゃらちゃらしているけど、実は職人気質の整備工で、おまけに彼女は妊娠している」なんて好意的に描かれる装置を、作家の意図通り好意的に共感する。「大企業のお抱え弁護士で、ついでに上等なスーツとオーダーメードの刺繍入りワイシャツを着ている」なんて否定的に描かれる装置を、作家の意図通り嫌悪する。でも、その描写は薄っぺらいと気づくんですよ、馬鹿は馬鹿なりに。
 この物語に一番欠けていると考えるのは、人間の奥行きが描かれていないこと。群像の濃密な4ヶ月間を描きながら、登場人物のキャラは一切揺るがないこと。人間が変化しないこと。すなわち池井戸潤が本質的に、「人間は変わらない」と諦めていること。
 ただ、小説に何を求めるかは、人それぞれであっていいと思う。私が求めているものは、この物語にはなかった。

空飛ぶタイヤ(上) (講談社文庫)

空飛ぶタイヤ(上) (講談社文庫)


空飛ぶタイヤ(下) (講談社文庫)

空飛ぶタイヤ(下) (講談社文庫)