パラランドスケープ “風景”をめぐる想像力の現在

 三重県立美術館にて。
 まずはエントランスホールの伊藤千帆による作品は、私にとってはエロスであった(配布された作品解説にも書かれている通り)。皮を剥ぎ磨き上げられた木の肌は滑らかで、撫でたい欲求が自分のうちに湧き上がるのを感じた。太さこそ違うが、実家の床の間に、皮を剥ぎ磨き上げられた柱があったのを思い出した。光の反射が強くもあり、鈍くもあり、繊細でもあり、様々な表情をのぞかせ、強く私の心を惹きつけた。ラテックスカーテンは経時変化を楽しむもののようで、今回はフーン以上の感想はない。
 1つ目の部屋、尾野訓大による写真展示は、見てすぐにミニチュア的だと感じた。言語化できないのだけど、なぜ気づくのだろうか。そして、何よりも私の心を躍らせたのは、そのサイズであった。3つ(だったかな?)A0を超える巨大プリントがあり、その制作過程にも思いを巡らせる。惜しむらくは作品が弛んで、印画紙のもとの巻きが残っていたことで、真っすぐに張り詰められて壁と一体化していたら、もっと「ぐっと」きたのではないかと思った。
 2つ目の部屋、稲垣美侑のインスタレーションは個人的には訴えてこなかった。この作品を見て、真っ先に思い浮かべたのは昨年水戸芸で催された内藤礼の個展だったのだけど、それは思い浮かべただけであり、水戸芸で最後の小部屋の明かりに感動して心震わせられたあの現象は、今回は特に何もなかったのだった。
 3つ目の部屋、徳重道朗による南伊勢町から紀伊長島にかけてのインスタレーションは、個人的には不満であった。何度か伊勢現代美術館を訪れたことがあり、また、伊勢路を何度かに分けて、梅ケ谷駅から新宮まで歩いたことがある人間としては、このインスタレーションによって、彼の地の記憶は多少は呼び戻されるものの、南伊勢や紀伊長島の路地についていえば潮の匂いがしないことに違和感を持つし、古道の峠道についていえば森の匂いがしないことや虫のけたたましさが感じられないことに違和感を持つ。一方で彼の地を訪れたことのない人にとっては、土地の課題が典型的な課題としてしか映らないのではないだろうか。印象としては、紀伊長島含め三重側南紀の過疎化の問題はもっと苛烈である。
 4つ目の部屋、藤原康博によるペイントを主とした展示を見て考えさせられたのは、この、プリンタで再現性高く高精細なプリントが得られる時代にわざわざ手で描く精密画の意味だった。木の板に描きつけた山並みは陰影も美しく、素晴らしいという第一印象だったが、2019年においては先に書いた疑問が浮かぶのであった。そして、どうでもいいことだが、なんでビーズなのに接着剤で制作しているのかなというつまらないツッコミが思い浮かんだ。
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