パーク・ライフ

 吉田修一パーク・ライフを読んだ。一緒にflowersという2人の青年のわずかな期間の交わりを描いた小説も収められているが、ここではパーク・ライフの方にしぼって書きたいと思う。
 この小説は日比谷公園(これが題の「パーク」だろう)を舞台とする、入浴用品会社?に勤めるぼくのひと時のできごとを切り取った作品である。地下鉄で、間違って声をかけてしまった女と日比谷公園で偶然出会ったことから物語は始まる。
 読んで印象に残ったのは、どうして公園に人が来るのかについてぼくと近藤さんとが言葉を交わすシーンと、気球を飛ばそうとしている男が現れるシーンと、ひかるについてぼくと女とが話すシーンの3つだ。
 1つ目のシーン。「どうしてみんな公園に来るんでしょうね?」と尋ねたぼくに、「ほっとするんじゃないのか。ほら、公園って何もしなくても誰からも咎められないだろ。…(中略)…だから俺は、お前みたいに公園が好きになれないんだな。…(以下略)」と答える。ふとした疑問に、1つの回答を与える、それだけのシーンだが、ぼくの性格を端的にあらわしていて、なぜか印象に残ってしまった。何もしなくていいところ、むしろ何かをするといけないところ、そういう"場所"を好むぼくは地に足を踏ん張ったりせず、ふわふわと浮かんでいるようなそんな存在なのだろう。何か真実を捉えていると思う。
 2つ目のシーン。日比谷公園で男が気球を飛ばそうとしているのは、上空から公園を鳥瞰するためだということが分かる。この小説で最も美しい箇所だと思う。それだけ。
 3つ目。このシーンで感じたのは、ぼくの心のありかが、足をついて生活している土地と別のところにあるんじゃないかなってこと。1つ目のシーンと同じく、浮遊感。ひかるという、すこし遠い存在が今だに心の中にあるということ。それを女に指摘される。それどころか、「……ねぇ、そのひかるって子、ほんとにいるの?」とまで言われてしまう。ここも真実を捉えていると思う(言いたいことがうまくかけてない気がする、っていうか書けてない)。
 この小説に限らず、最近の小説は、徹底的に固有名詞を使っているものが多い(高橋源一郎のような使い方は例外)。昔の―と言ってもつい20年ぐらい前までだが―小説だと、作品に普遍性を持たせるために、できるだけ固有名詞を廃していたが、この描き方にはどういう意味があるのだろう。今ぽんと思いついたのは、作家が、小説は書いている時間、書いている場所、その限られた時間空間世界でしか成立しないんだという潔い姿勢で書いているのではということ。この小説自体も、いきなり終わる。クライマックスがあるわけでもない。ただ象徴的に、これからも"続く"ということが暗示されるだけだ。本当に、1枚の写真のように切り取っただけのそういう作品だ。なんとなく、最後の息子のほうが良かった気がするけど。

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)