太宰治の小説について考えながら

 太宰治の書いた小説には常に死臭がする。僕が読んだことのあるのではメロスだけ(かな?)毛色が異なるけども、太宰治という人間を強く想起させるような人物が登場することが多く、斜陽においても「直治」という名の太宰治が登場する。彼は無頼のごとく振舞うが、それは彼の弱さからくるものであり、美学などとはかけ離れたものとして描かれ、矮小な人物として、読者をえぐるような描かれ方をしている。
 彼は物語の最後で自ら命を絶つわけだけど、その瞬間までは確実に生きていて、それは僕にとってちょっと不思議だった。物語の序盤からして、彼は、明文化されていないものの、この物語のどこかで死ぬだろうと示唆され続ける。そして、斜陽という物語は、僕が読み始めた時点で既に「書かれて」おり、直治の運命は「決定して」いる。すなわち「死んでいる」とも言えるだろう。しかし、物語を読んでいる僕には彼は終盤まではずっと生きていることを、己の生をアピールし続ける。そして僕は死臭を感じつつも、彼の生を認めて読み進める。
 書いててよくわからなくなった。ゲームが終わってるのに、スポーツニュースを観るまで阪神の勝利を祈るトラキチや、結果が決定しているのに合格発表を見る瞬間まで合格を祈り続ける受験生みたいなもんか?いや、これは時間と空間の問題だな。
 どうでもいいことだね。