京都国際学生映画祭part1

 片足突っ込んでしまってるんで今年も行きました。スロバキアの学生映画プログラムを観たのだが、駄観客の私でも、考えさせられることがいくつかあった。
 まず、1つ目のドキュメンタリー。今にも朽ちようとする家に住み、自らも長くないことを悟っている数人の老人を写真に収める過程を捉えた映画。モノクロの写真。モノクロの映像。老人の顔や手に刻まれている皺の深さ。その動作の緩慢さ。全てに死の影が迫っている。観ていながら、オチとして誰かが死ぬのだろうなと、そしてそれをどう描くのだろうかと考えていたのだけれど、、、この作品に用いられている描き方もあるのはわかっているのだけれど、ありきたりでオリジナリティーからみて寂しいし、もっと死を死として描く方法は何かないのだろうかと軽い失望感を覚えた。以前も文学界での高橋源一郎の連載を読みながら考えていたけれど、死というものを捉えること、そしてそれを言葉や映像として変換すること、それが難しい。自分が感じた、自分の中にある「死」にいつか形を与えてみたいとずっと考えているのだが、まだまだ先のことになりそうだ。
 そして、2つ目の油絵でつくったアニメ。観始めてすぐは、手法の目新しさだけの映画かなと穿った見方をしていたのだが、なかなかどうして、この手法がテーマともいい一致を見せているし、ただのテクニック以上のものになっていると感じた。油彩というのは一度描いたものを消して描き直すのではなく、上に色を重ねることで作品を完成させるわけだけど、つまり少しずつ手を加えて1コマ1コマ撮影することでパラパラマンガのようなアニメを作ることができると、そういう手法が用いられている。うまくいえないけれども、油彩が荘厳な色使いで描かれているので、テーマを表現するにあたって補って余りあるような効果をかもしていて、なんか良かった。ただ、時間が長過ぎるとは思ったけれども。
 天窓が1つだけある白い部屋で人形があれこれする短編。人形が、腿をかいたりとか尻をかいたりとか、なんか心を掴むようなユーモアはある。部屋が動いたりして、外側というものを強く意識させられて、部屋がどんなロジックの元で動いているのだろうと想像を膨らませながら、推理するのが楽しかった、途中まで。頭の固い人間なので、何かあるルールの存在を期待していたのだが、そのロジックが途中で破綻して不条理ものになってしまったのが不満。内側から見たら不条理だけど、外側から見たら整合性のある論理の下で動いているというのでなければ、オチにならねえんじゃねえかなと言いたい。
 あと、もう1つ、長回しってのはやっぱり好きなんだけど、だからといってカメラに動きがないと、よっぽど画面が面白くなければ飽きる。