言葉、について

 文学界1月号と2月号に掲載されていた、高橋源一郎のニッポンの小説を読んだ。これはコロンビア大学で2002年に行った講演を文章に起こしたものみたいだが、すごく興味深かった。
 最も印象に残ったのは、JJに連載されている吉田修一のキャラメル・ポップコーンについて触れたところで、小説は単行本や文庫本というかたちでテクストとして読まなければならないものではない、途中でほっぽり出したり、めし食いながら読んだり、読み方はいくらでもあるということ、と共に書かれていた次のことである。
 今まで女のための小説は無かった。
 高橋源一郎は言う。今まで主人公が女性の小説はあった、が、それは女性を描いた男のための小説であると。(うろ覚えで全く自信はない)
 続いて、ほぼ日のおとなの小論文教室。を読んだ。全くの偶然だが、このコンテンツは今日、女らしさと言葉との間のジレンマを扱っていた。女性には「おれ、ぼく」のような一人称がない。がしかし、それを使えば女らしくないという扱いを受ける。また、男が「出て行け」と言うのは問題ないが、女がそう言えば印象が違う。女なら「出てって」だろうか?しかしこれは出て行けとは違って「お願い」である。というようなことが書いてあった。
 そして今読んでいる金井美恵子の小春日和は主人公の親友が男の子みたいな言葉遣いをする。さらに自分のことを「おれ」と呼ぶ。
 この3つのことが僕の中でリンクした。
 言葉というのはいかに不完全なコミュニケーションツールであることか。金井の小春日和はこのことへのささやかな反抗、挑戦であると。などなどと思った。
 その他にも高橋源一郎の言葉にはたくさん気になる表現があった。
 彼はもう小説家というより日本語研究家のようだ。まあ、もともとそういう小説を書いていた気がするが(笑)