アワーミュージック

 映画は目的ではなく手段である。それは、作家にとっても観客にとってもであり、少なくともジャン=リュック・ゴダールという作家にとってはそうだった。彼にとって、映画はメッセージ伝達の手段でしかない。アワーミュージックという映画において、ゴダールは示唆的に連なった言葉や音、映像の力を通じて観客に問いを投げかける。その問いは観客に考え、悩むことを要求しているため、映画を目的としてだけで捉えている観客にとって、この映画はクズ同然だろう。この映画は映画を手段と捉えている人間にのみ開かれている。
 わずかばかりのモノローグと、マイナーコードの音楽、死を映す映像とで編まれている地獄編は苦痛だった。僕のような殺戮の映像に対して無感覚になってしまっている人間にとって、あの戦争映像自体は大して苦痛ではなかったのだが、その垂れ流し続けられる長さに退屈してしまい、不快感を感じ、屈服した。つまり、作家の思うつぼにはまってしまった。
 というように、アワーミュージックは意図的につくり上げられた、実に巧みな映画作品であるのだが、僕にとって、と前置きをした上で言えば、メッセージの伝え方に難があった。画や音という感覚的なものが、そのままの形で記憶され、印象に残りやすいのに対して、言葉というものは印象に残りにくい。言葉の意味するところを記憶するのはさほどではないのかもしれないが、歴史というものを踏まえた形で、たくさんの過去の言葉を引用してつくられているこの映画、言葉に多くを語らせているこの映画で、僕は言葉まみれになり、思考が妨げられてしまった。まあ、ゴダールの想定する観客の中に、僕が含まれていないということなのだろうが。