毒身温泉

 この本において、毒身とは独身、すなわち結婚していない状態を必要十分に表す言葉ではない。もっと形式的ではなく本質的な意味を持っている。精神的にひとり立ちし、他人に依存せずに生きていれば、「かたち」など取るに足らない。星野は1997年に最後の吐息で文藝賞を受賞したとき次のように語っている。「私は徹底して個人的なコミュニケーションにこだわり続けていきたい。」
 群れるな、縛るな、甘えるな。この3つを三原則とする架空(?)のコミュニティ、毒身帰属の会。星野は、この組織の外側の人間を毒身帰属で、内側の人間を毒身温泉で描く。毒身帰属の会の(元?)代表シキシマは言う。もう結婚する必要がない。私たちはみんな、独身でいい。SEXはUNIだ。性はひとつだ。etc…。
 上記のように、星野智幸という作家にとって、群れとして塗りつぶされていない個人としての存在、というのはかなり大きなテーマであるようだ。パートナーがあろうがなかろうが、精神的な依存とは関係ない。個人としての存在を持っていないし持とうとしてもいない人間と、持っていないが持ちたいともがく人間がこの本には登場する。読者は1つのモデルとして彼らを眺め、星野からの問いを受け、ある答えを自分の中に持つことを強いられるだろう。
 ふと、ペドロ・アルモドバルのオール・アバウト・マイ・マザーを見たくなった。

毒身温泉

毒身温泉