在日ヲロシヤ人の悲劇

 多数の登場人物の視点から物語世界を描写することによって、その物語世界は立体感を持って浮かび上がる。その立体感によって生み出される世界のリアリティは、とりもなおさず、それぞれの登場人物を補強し、生々しい人間という存在をフィクションの中に産み出す。
 えげつない暴力描写や性描写など皆無にもかかわらず、この作品を読んでいると、気分の悪さ、気色悪さを感じるというのが、この小説において特筆すべきものの1つだと思ったのだが、それはこの小説が、人間というものの深いところにあるであろう、本質のある1つをつかんでいるからだろう。コピーのコピー、すなわち孫コピー。それをさらにコピーし続けていけば、いつしか薄れていき、白紙になるだろう。自分が価値のないコピーのコピーに過ぎないと気づいてしまった時に、登場人物たちは自分を糞紙程度の役に立てばいいと、積極的に生きることをやめ始める。家族の中で最も鈍感で、最後まで気づかなかった憲三も後を追うのだろう。
 また、皮膚だけで形成されている張りぼての空っぽの存在であった憲三が、先立たれた娘、好美の灰を口にし、体内に取り込む(ドーピング)ことで、好美の息子として生まれ直し、生き始めるという件、対して、純が自らの起源はお袋=貴子1人であり、云々、そして貴子の遺灰は畑に撒かれており、そこで野菜をつくる=貴子が野菜を産み続けているという件は、星野らしいなと思わずにはいられなかった。否定的な意味ではなく。

在日ヲロシヤ人の悲劇

在日ヲロシヤ人の悲劇