吉田修一原作・李相日監督の怒り。劇場で。
八王子で起きた
SCAI THE BATHHOUSEに行き、アニッシュ・カプーア展。
これは素晴らしかった。この作家を意識したことはこれまでなかったのだけど、たぶん今までに金沢などで作品は見てきたはず。
最も心を奪われたのは最も手前に展示してあった、串を抜いた団子みたいな形をしたSUS?の球みたいなオブジェ。外も内も鏡面仕上げをしてあるので、外も内もその表面全てで鏡のように展示室や自分自身が映る。エッジも繊細に鋭く鏡面仕上げをされているので、内側はおそらく独立した3つの曲面で構成されているはずなのだけど、その曲面と曲面の間の境界も繊細に鋭く鏡面仕上げをされているので、目を凝らしてみてもどこに境界があるのか判別できない。自分の視覚がおかしくなったかのような体験をすることができた。
次に心奪われたのは、これも鏡面仕上げのSUSの球が展示室の隅っこの壁と壁のL字部分に埋め込まれたようなオブジェ。一目見たときには上記のようなシルエット(壁とオブジェの境界)を認識するのだけど、徐々に近寄って見てみると鏡面仕上げの金属球ではあり得ない反射をしていることに気づき、オブジェ至近まで近寄ると実は2つオブジェの集合でできていることに気づく。上のオブジェと同様に、2つのオブジェは寸分の狂いなく接着されており(表面の色から判断するに溶接されている)、またエッジまで繊細に鏡面仕上げされているために一見2つのオブジェで構成されていることに気づかない。従って、オブジェに近寄っていった時に自分の視覚が揺らぐ経験をすることができる。
その他、極限までなめらかに傾斜をつけられたグラデーション塗装(黒to灰)がなされた円盤であるとか、黒に薄く塗装された(おそらく)放物線鏡面による天地左右逆転鏡など、視覚を揺さぶる作品と、さらに習作なのかペインティングや模型が展示されていた。
上述のように、2つの金属製オブジェは私の好奇心を極めて刺激してくれた。
新海誠の君の名は。劇場で。観ようとした回が中高生ぐらいで劇場が満たされるくらいの混雑だったんだけど、課外授業ですか?
脚本が幼い。それが観終わった第一印象。いや泣けるんですよ、RADWIMPSガンガンにかけてくるし、堤幸彦を超えるレベルで情景大回転させてくれるんで。*1
でもさ、1分1秒が貴重でない、何度でも黄昏時に訪れることのできる瀧くんは大事な目的忘れていちゃついてりゃいいんですけど、今の1分1秒でセカイの破滅を担っている三葉が、同級生を犯罪者にしたり面倒ごとに巻き込んでおいてたらたらしてんじゃねーよボケって話ですよ。
んでタイトルにもなる大事な大事な君の名を忘れないようにお互いに手のひらに書こうって時に、時間切れで書ききれなかった三葉はしょうがないものの、瀧くんはどれくらい知能指数が低いのか、名前じゃなくて書いたのが「すきだ」じゃねーよボケって話でしょ!?
最も重要な、最も緊張感を高めて高めておいての、この弛緩しきった脚本、これはびっくりして、正直笑いました。脚本は合作にしたほうがいいと思います、新海監督。
劇場で観る価値のある劇映画ではあったものの、そこが不満。
冒頭の実写かと見まがうような異様に精細なアニメと、確かに実写では不可能なカメラワークには心奪われました。でも、ン十年生きてきて、汚れきった私には、あの最も重要なシークエンスでの脚本のクズっぷりには耐えられませんでした。
繰り返しますが、劇場で観る価値はあるというのが私の意見です。
www.kiminona.com
岡崎・豊橋はこの前行ったので、今回はあいちトリエンナーレ名古屋地区へ。名古屋市美術館以外の愛知県美術館・栄会場・長者町会場を訪れた。
愛知県美術館、10F入口にパンフの表紙にもなっているジェリー・グレッツィンガーの想像上の都市の地図が展示されている。大きさには心動かされるものがあるものの、作りこみであったり親しみであったりは空想地図(タモリ倶楽部にも1度取り上げられた)のほうが質が高いと感じた。
あいちトリエンナーレの岡崎地区・豊橋地区をぶらついた(名古屋は今度にした)。
こんなことでもなければ、岡崎や豊橋をわざわざ訪れ、歩き回ることはなかっただろう。
実際に街に住む住人が諸手を挙げて参加をしているかというと、そうではないが、かつての横浜トリエンナーレくらいの勢いは感じた。
あいちトリエンナーレ2016
こんなに奥行きがある映画だった記憶がなく、3時間の豊かな映画体験を楽しめた。結婚式に始まり、葬式に終わる。映し出される画面の構図も垂直と水平が多く、かっちりした印象を強く持った。
仕事の先行きが怪しくなり、かつての恋人との再会に揺れる父、NJ。繰り返す日々に行き詰まりを覚え、宗教に救いを求める母、ミンミン。まじめであるがゆえに、自責の念に囚われ、また恋に悩む姉ティンティン。体が小さく同級生の女の子にからかわれ、また素直であるがゆえに大人と多少の軋轢を抱える弟ヤンヤン。この4人の家族を中心とした群像劇。イッセー尾形演じる大田が悟ったような言葉と共に、NJに示唆を与えるのだけど、それは観客にも届く。
歳を重ね、経験が増えていくにつれて、映画におけるフックにたくさんかかり、より深く楽しめるそういう作りになっていると思う。
8年ぶりに観たようだけど、我ながらいいシーンの記憶を持っていた。
父親のウィラポンみたいな顔、ヤンヤンが女の子に対して抱くまだ形を持たない感情、シェリーが泣くホテルの窓に反射する東京タワー、イッセー尾形演じる大田と父親との何にも担保されていないのに厚い信頼、姉ティンティンがときめきながら着たドレス姿
エドワード・ヤン監督の恐怖分子。DVDで。
台湾のじっとり粘り着く暑さの中、カメラマンの少年(兵役直前)、ハーフの不良少女(美人局もする)、医師と小説家の夫婦を中心に、少年の彼女、少女の母、少女の悪友、病院の人々、医師と旧友の警部、小説家の元彼がそれぞれに動きながら、不穏な空気の圧が高まっていくのを観客は眺めている。
書けずに悩んでいた小説家が殻を破った受賞作と現実との相似性から、実際に不幸がしみのように広がっていき現実となる。2つのパラレルワールドが描かれ(現実は後者だろうが)、観客の予想を裏切らずに、筋書き通りに終わる。
隠喩的な風景、小道具、そして必要最小限の台詞、スクリーン越しに伝わってくる逃げられない暑さ湿気、すべてがラストに集約されていくような、そういう悲劇。
黒川幸則監督ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ。新宿ケイズシネマにて。
ツアー中のバンドマン中西(主人公)が移動中の車から追い出されたところは、生きるものと生きていないものが同じような姿をして入り交じって暮らしているところだった。
誰が生きるもので、誰が生きていないものなのか、不確かなところも残されていて、ふわふわとつかみどころがない思いを抱きながら観ることになる。その街の空気も緩んでおり、中西は居所を提供してくれた古賀さんといつも酒を飲みながらいつも煙草を吸いながらダラダラと時を過ごす。
とはいえ、ゆるゆる世界にも問題は転がっており、生きていないものの暴力性が露見することもある。中西は何度か命を狙われたりもする。
ざらざらしたノイズミュージックとともに、暴力の塊も突きつけられるのだけど、でも、のんきな映画でほほえみながら観ることのできる、そんな映画だった。
など、その世界のルールが読みとれなくて、ふわふわした気持ちで観たのだった。
映画『VILLAGE ON THE VILLAGE』公式サイトwww.villageon.ooo
上映後のトークで、黒川監督、ゲスト太田信吾監督、近藤さん役佐伯美波が語らっていたのだけど、黒川監督が細かな整合性はある程度捨てて、むしろこれこそが映画なんだ的力強さを大事にした旨語っていた。
そして偽日記に書いてあったとおり、プロダクション・ノートが非常に興味深い。