七人の侍

 まず何よりも、単純にエンターテイメントとして質が高かった。3時間半にもわたる上演時間をほとんど時間を気にせず観れたのはこの作品が初めてかもしれない。エンターテイメントとして質が高いというのは皆平等にわかりやすいということだ。この映画がヨーロッパ、アメリカで受けたというのもうなづける。
 上映では前・後編に分かれていたが(それは間に休憩を挿みたかっただけだろう)、それだけでなく、各シークエンス毎に区切り(画面が暗転する)が入れられており、しかも、そのシークエンスが全てエピソード的に一つの物語として、起承転結が存在している。この、細部の集積が「七人の侍」を形作るという仕組みが、観客に常にメリハリとして刺激を与え続け、冗長ということから逃れることを可能にしている。実に近代科学的な、微分積分的な構造を持っている。また、笑いもふんだんに織り込まれており、そのドリフターズ的というか、ダチョウ倶楽部的というか、あまりにもお約束的過ぎて笑ってしまうような、予定調和的な笑いは作品の雰囲気を壊すことなく、作品のエンターテイメントとしての質を高めている。
 言わずもがなだが、これはあくまでも一つのエンターテイメントであり、一つの虚構である。それを監督以下のスタッフ、志村喬以下の役者陣がよく理解をしており、それを踏まえた上でのキャラクター達であり、皆が立っていた。この作品で出てくるような表情、動作を現実世界で目にしたら、明らかに気持ち悪い。つまり、リアルではない。しかしながら、この虚構の中では実に「リアル」に生き生きしていたり、死んだ動作をしていたりする。つまり、ビリーバブルだ。左ト全なんてひど過ぎる顔をしている。三船敏郎なんて辛うじて人間である獣みたいなもんだ。しかし、この虚構においてはそれが生きている実感すら持てるほどなのだ。これは意識の問題ではないかと思う。スタッフ、役者が皆、リアリティや虚構ということに対する確固たる意識を持ちながら撮影に臨んでいたのではないだろうか。なんて知ったかしてみる。
 そして、これはアニメではないので、いくら制作側が綿密に脚本を練り上げ、厳密に監督しようとしたところで、確実に不確定要素が入り込む。つまり役者のニュアンスのようなところだ。この作品をエンターテイメントとして完成させているのはこのニュアンスの部分だろう。当たり前のことだが、菊千代を「菊千代」たらしめているのは三船敏郎、その人の魅力であり、勘兵衛を「勘兵衛」たらしめているのは志村喬である。他も同様なのだが、面倒なので書かない。この人間の魅力という、コントロールの難しいであろうものを見事に作品の力へと昇華させている黒沢明はやはり只者ではない。
 この時代に音がずれているのはしょうがないことなのかもしれないが、この映画の最大の弱点は女が描けていないことだろう。女性に全然魅力がない。その種の美というものからは完全に見放されてしまっている。
 とはいえ、三船敏郎演じる菊千代が特に印象に残った。豪胆で人情に厚く、涙もろいという、明らかに胡散臭いキャラクターを人間として結実させているのは、人間三船の力だろう。

七人の侍 [DVD]

七人の侍 [DVD]